天才理論物理学者の半生を描いた、クリストファー・ノーラン監督『OPPENHEIMER』を観て来た

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去年、アメリカの天才理論物理学者の伝記映画が公開されると知って、それも〝原爆の父〟ロバート・オッペンハイマーが主人公という事で、エセ理論物理学好きの私は狂喜乱舞していたんですが、なぜか日本公開の情報が無く時が過ぎ、、、

「えー、まさか主人公が〝原爆の父〟だから、とか??、、、だとしたら、なんてくだらない理由なんだ」

なんて考えながら2024年になって、やっと日本公開という情報が出て、ちょいと遅ればせながら観て来ました。

うん。良い映画でしたよ。
難解と言えば難解な映画でもありますが、私のように1回観て、あまり何度も見直さないような、これまたエセ映画好きのような人間が観ても、その1回で映画のテーマのような〝重み〟は十分に感じ取れると思います。

第二次世界大戦末期の世界情勢や、その後の冷静時代に繋がる背景が予備知識にあると、その難解度は下がるのかな、とは思ったりしました。
私の場合、それほどの予備知識はありませんでしたが、なんせエセ理論物理学好きなので(笑)、映画に登場する有名な科学者の何名とかは知っていたので、映画の最初の方でニールス・ボーアが登場したりして、私一人それだけで「おおっ」て〝胸熱〟状態で観てました(爆)

まあ、〝原爆の父〟と言われるように、彼が中心となって世界初の原子爆弾の実験に成功するわけで、それが日本の広島と長崎に繋がるのは歴史的事実ではあるので、日本人が冷静にこの映画を観て批評出来るかは難しい側面があるとは思うのですが、出来れば、そんな「自分が日本人である」という事は一旦忘れて、この天才理論物理学者オッペンハイマーの視点で、自分がオッペンハイマーになった気分で観てみると、色々と感じれるところが多いのではないでしょうか。


さて、ここからは1回しか観ていない私が好き勝手の適当で無責任な解釈と感想を書いていこうと思います。
ネタバレも含むと思いますので、まだ映画観てないという方は、ここでとっとと、このページは閉じてしまって下さい(笑)
また、好き勝手な解釈と感想なので、一部過激な表現を意図的に使うので、「原子力反対」とか言ってるだけで幸せになれる方々には、非常に不愉快な内容になると思われるので、やはり、ここでとっとと、このページは閉じてしまった方が、これからも狭くつまらない世界で楽しめる人生を歩めると思います。

まあ、だらだらと箇条書きで思いつくまま書くずらよ。


映画の進行自体がわかりにくいんですが、基本的には所謂〝オッペンハイマー事件〟が舞台となり、その都度、過去に遡る形でストーリーが進行します。
オッペンハイマー事件が舞台の時、映像がモノクロになる部分があるのですが、オッペンハイマー事件が舞台で尚且つ映像がモノクロの場面は、オッペンハイマーの視点ではなく、ルイス・ストローズの視点となっていて、映画ではオッペンハイマー事件の黒幕的な存在として描かれています。(史実でもオッペンハイマー事件を先導した人物ですよね)

水爆の父ことエドワード・テラーのインタビュー。当時のオッペンハイマー事件では、オッペンハイマーに不利な発言をしていた。

結果として、第二次世界大戦を終結させ、多くのアメリカ国民を〝救った〟英雄ロバート・オッペンハイマーは、表舞台が引き摺り下ろされ、公職追放のような状態になるわけですよね。

さて、映画はオッペンハイマー事件の舞台と行き来しながら、学生時代から研究員となり、アメリカの原子爆弾開発〝マンハッタン計画〟のリーダーとなり、世界初の原子爆弾が誕生した〝トリニティ実験〟へ進みます。

作中のオッペンハイマーは純粋な科学とは別に、ドイツのナチスが自分たちより早く核分裂の実験に成功していた事を知り、ナチスより早く原子爆弾を完成させねば、という使命に駆られていきます。その為、世界中から多くの科学者を集めるわけですが、その時に誘われた物理学者の一人イジドール・ラビ(だっかな?)、「(近代)物理学の歴史300年の集大成が大量破壊兵器か」とオッペンハイマーに問うシーンは、なんか「ぐっ」と来ましたね。

それでも、ナチスが核兵器を手にすることだけは阻止しなくては、という目的に多くの科学者が盲目になってしまったわけです。

あと、水爆の父ことエドワード・テラーもマンハッタン計画に加わっていたのは知ってましたが、まだ原子爆弾が実現していない段階から、より強力な水素爆弾を唱えていたのは知りませんでした。

原子爆弾への研究や実験の中で、面白いやり取りだなぁ、と思ったのが、レズリー・グローヴス将校との会話でオッペンハイマーが、ある懸念に対して確率は「ほぼゼロ」と言うのに対して、「だったらゼロだ」と断定するようなシーン。それでオッペンハイマーは少し苦笑いをするような(そう見える?)流れになるんですが、理論物理学者で当時の先端である量子力学を研究していたオッペンハイマーにしてみたら、パラレルワールドを肯定する量子力学において、〝ほぼゼロは、ほぼゼロであり、それ以上でもそれ以下でもない〟話で、科学者と軍人の違いが面白い場面でした。
日本語字幕も、オッペンハイマーの「ほぼゼロ」という訳に、〝〟を付け足していたと思うので、「ほぼゼロ」という意味だけではない、また違った意味が込められている、というシーンだったと思います。

その違う意味は、原子爆弾の研究・開発を進めていく中で、計算に関する問題が生じていたと感じ? で、そのことについて別のシーンで、アルベルト・アインシュタインに相談を持ちかけるのですが、アインシュタインは「これは私の式じゃない」というような感じで、突き返すんですね。

これ、最後の最後のシーンの伏線だったのかな、と今になって思う重要なシーンだったのでは、と妄想。

そして、いよいよパンドラの箱が開く、トリニティ実験を観て、「あれ」と思う描写というか、強烈な爆風と衝撃波をその場にいた多くの関係者が体験するシーンなのですが、もちろんその裏には、実験場の周辺住人も含めて被爆被害という実態があったようで、映画では一切その説明もシーンもありませんが、観ていて「あんたら、そこに居てヤバくね?」と思う映像には仕上がっていたと思います。

トリニティ実験が成功後、大量破壊兵器である原子爆弾を造るという大義名分と、科学者の想いの乖離が始まります。

ドイツのナチスは降伏をし、日本が降伏するのも時間の問題となっている中、なぜか広島と長崎に原子爆弾が投下されます。

世界で初めて、人間を対象に使用された核兵器です。

史実として、原子爆弾開発に関わった多くの科学者は、原子爆弾の実戦使用について意見を言える立場ではなく、映画に描かれているとおり、オッペンハイマー自身も原子爆弾投下後のラジオ放送で、事実を知ったそうですね。

その為、この映画には日本の広島・長崎に関するシーンは、言葉として出て来ますが、映像としては描かれていません。
そこに対して、特に日本国内からの批判があるようです。原爆の父、オッペンハイマーを描くのに、なぜ広島や長崎を描かないのか、と。

個人的に映画を観て思うのは、「広島・長崎を描かなくて正解」だよね、と。
むしろ描いていたら、どうにも観るに耐えない、くだらない映画になっていたでしょう、確実に。

そもそも論、これはオッペンハイマーの自伝的映画であって、原子爆弾の開発は、要素の一つでしかない事。
そんなに広島・長崎のシーンを見たいなら、例えば広島平和記念資料館に行くべきです。ここ以上のものは、世界に存在しないでしょう。
映画『オッペンハイマー』で広島・長崎をCGとか使って精密に描いたところで、ただの空想でしかありません。
更に、原子爆弾や核兵器云々を言いたいのであれば、その中心はアメリカであって、日本ではない事。

確かに日本は〝唯一の被爆国〟ではありますが、そんな論理が通じるのは日本だけで、世界の多くの国の歴史や教育の現場において、それだけで日本を特別扱いなんかしてませんし、他国の歴史より自国の歴史の方が大切です。

いつまでも〝唯一の被爆国〟と、そこで思考停止していては、この映画の理解も含めて、それこそ何一つ世界に向けて発信する事も出来ないんじゃないですかね、と。


と言いつつも、クリストファー・ノーラン監督が、少なくとも日本人がみたら、広島・長崎を連想させるようなシーンというか演出はしていたように思います。

オッペンハイマーが英雄扱いされるシーンや、その後の非公式非公開の公聴会?のシーン。同じような演出は2度あったと思いますが、所謂〝ピカドン〟っぽい演出。
画面全体が白く飛び、そこにいた人の皮膚が砕け落ちるようなシーンが入り、一瞬にして人がいなくなる、という演出。
オッペンハイマーが英雄化される中で、自分が大量破壊兵器を生み出し実戦で使用されてしまった罪悪感と、揺れ動く精神状態を映像化するような演出のシーンだと思うのですが、これは日本人が観たら広島・長崎を連想してしまうのではないかと。それを分かった上で監督は入れたのかな、という気がしますし、同じ演出が2度入るというのも、広島と長崎を暗示させているような気がして、そういう意味では、しっかりと広島と長崎は描かれていた、と感じてます。

なんかさ、皮膚が砕け落ちるようなシーンにも批判している人もいるそうで、実際はそんな生優しい状況じゃないんだよ、って。
そんな事、監督は百も承知だと思いますけどね。


原子爆弾の日本への実戦投下に反対する署名にはサインしなかったオッペンハイマーでしたが、それ以降、世界で情報共有して核兵器のコントロールするべきと訴え始めて、水爆にも反対を表明して、結果として冷戦時代に突入するアメリカ国内においての核兵器開発推進とは相入れぬ存在となってしまって、追放されてしまうわけですよね。

追放される直前、プリンストン高等研究所の所長となったオッペンハイマーは、再びアインシュタインと会うわけですね。
アインシュタインはプリンストン高等研究所にも所属していましたから。

映画の中でオッペンハイマーは、「我は死神なり、世界の破壊者なり」という古代インドの聖典の一節を何度か言うシーンがあります。

映画のラスト、再びアインシュタインと会ったオッペンハイマーは、またこの一節を言うんですね。ただし〝我〟ではなく、複数形にして言うんです。「私たち」という台詞だったかな?

即ち、「アインシュタインさん、あなたも同罪ですよ」と。

アインシュタインは、原子爆弾開発〝マンハッタン計画〟には関わっていません。
あと、よくアインシュタインの特殊相対性理論から導き出された式、E=mc2が原子爆弾開発の役に立ったみたいな事を言う人もいますが、もちろんデマです。
そもそもE=mc2で核兵器なんて造れませんから(笑)

E=mc2は、あくまでも質量(重さ)とエネルギーは〝等価〟である、という原理を示した公式なだけです。そこに質量(重さ)があれば、それはエネルギーに変換出来る。
その逆に、そこにエネルギーが存在するのであれば、質量に変換出来る、という意味でしかありません。

この映画の解説ネタでも、E=mc2と原子爆弾を結びつけている人もいるみたいですが、このデマ、何処か起源なんでしょうね(笑)

むしろ、なぜオッペンハイマーはアインシュタインに対して、複数形で「破壊者」と言ったのか。
それに対して、何一つ言い返すことも否定もせず、黙ってその場をアインシュタインは去ったのか。

数式の相談を受けた時は、「私の式じゃない」と突っ返したのに。

アインシュタインは自分の研究結果においても、マンハッタン計画そのものにおいても、核兵器とは絡んでいません。
ですが、時のアメリカ大統領フランクリン・ルーズベルトに宛てた手紙にサインをしていて、後にマンハッタン計画へ繋がる重要なサインとなっている事。
そして、日本に原子爆弾が使用された事に、憂いていた事。

その立場自体はオッペンハイマーと同じだったはずです。

そして複数形で「私たち」と言ったのは、アインシュタインだけではなく、この時代に生きた科学者全員に向けた言葉だったんじゃないかと。

そして。

去っていくアインシュタイン。
無表情で虚な目を見開き、正面を見据えるオッペンハイマー。

そこで、あっ、て思った。

無表情で見つめるオッペンハイマーの先には、スクリーンを通して私達、映画を観る観客がいる。

「私達は破壊者になった」

誰でもない、今、映画を観ている私に言ってるんだ。

「あなたも破壊者だ」、と。


現代にオッペンハイマーがいたら、どんな研究をするだろうか。
この核兵器が広がった世界に、なんと言うだろうか。

時代が許してくれなかった、と言ってしまえば、身も蓋もない話になってしまい、それこそ思考停止してしまいそう。

科学者に結果責任を無制限に負わせるような事態になれば、誰も研究なんてしないでしょう。
だからといって、道徳的な責任まで排除する事は出来ない。

アメリカ側の視点から言えば、表や裏の理由がどうであれ、日本に原子爆弾を落としたのは「正義」であり「正しい」判断というのは揺るぎない事実。でも、関わった科学者一人の道徳的責任は、計り知れなく重い。

2024年。
兵器だけではなく、半導体の輸出規制に始まり、AI開発競争もあり、政治的にも安全保障的にも「他の国より開発を有利に進めなくては」という流れは、加速されているように感じます。
そこには、多くの優秀な科学者が関わっているはずです。
そして、それに賛同する国民がいるはずです。

構図はオッペンハイマーが生きた時代から、何も変わってないように思います。

果たして、この映画。
原子爆弾の開発、なんていう小さな視点で観るべき映画なのでしょうか。

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